藤圭子 ランキング!

藤圭子 藤圭子 ベスト 昭和歌謡を歌う 黒い花びら カスバの女 君恋し アカシアの雨がやむとき うしろ姿 怨み節 くちなしの花 みちづれ みちのくひとり旅 舟唄 涙の酒 網走番外地 DQCL-2112

黒いはなびら 君恋し を彼女の声で聞けるなんて!いつまでも心の曲として。 藤圭子 ベスト 昭和歌謡を歌う 黒い花びら カスバの女 君恋し アカシアの雨がやむとき うしろ姿 怨み節 くちなしの花 みちづれ みちのくひとり旅 舟唄 涙の酒 網走番外地 DQCL-2112 関連情報

藤圭子 悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾

この書にたいして二つの疑問があった。一つは、なぜ、大下英治が書いたのか。その内容は 厳密に故人となった藤圭子の家族もふくめて、彼女のスタートを輝くためにたたかった男、さらにその娘の歴史。こんなにも丁寧かつ具体的になぜ書くことが可能なのか。著者の姿が知りたかった。藤圭子にたいして、若いときから挑戦しきちんと調べ上げスッキリとさせてきたのだ。「何回も何回も藤圭子に挑戦してきた。」これだけ精密に描くことができて当然と言うべきか。二つは「宿痾」という言葉を あえて 副題として えらんだのか。宿痾は 一般的辞書では 次のように語られている。大辞泉:長い間治らない病気。持病。痼疾(こしつ)。宿疾。宿病。「―に悩む」著者の 過去に取り組んできた世界はひろすぎる。今回 藤圭子なる歌姫のことを書いた。一つのことへのこだわり。異常と言えば異常。決して異常で無いと著者は語っている。藤圭子になる前までの話しは とくに 驚くべきことでは無い。しかし、藤圭子が 引退したその後の人生、ならびに娘 宇多田ヒカルの物語は この著者しか描けない圧巻の内容である。みごとである。これほどの 藤圭子伝は今のところみあたらない。いやそれをとりまく周囲の人間たちを具体的に紹介しているからである。そして それを みとめていた当時の日本社会の状況が描かれている。この書を読むことによって、大勢の諸氏は 藤圭子を必要とした日本の大状況を想像するであろう。貴重なる 資料となった。そして、かほど、著者に熱情をかけさせた 藤圭子という女神が存在したという事実に 感動する。まとめる。きちんとした 内容である。藤圭子とそれをとりまく小状況、ならびに大状況を一挙にしかも詳細に描ききってくれた。読者は 己の人生を 相対化せざるをえなくなる。藤圭子は 魔法の女性といいたくなる。しかしこの書は 「魔法を 魔法で無い」と美事に分析した。著者に感謝する。 悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾 関連情報

藤圭子 カラオケDVD 藤圭子 1 / 本人歌唱

本人歌唱とあるので映像も本人かと思ったらイメージ映像でした。しかも大画面で見ると高画質とは言えません。普通のカラオケDVD でした。ご冥福をお祈りします。 カラオケDVD 藤圭子 1 / 本人歌唱 関連情報

藤圭子 流星ひとつ

出してはならない一冊だった。同時に今こそ出されなければならない一冊だ。ノンフィクション文学の大家が30年前に書き上げてしまっていた彼の集大成である。藤圭子が引退したのは30年以上前だからとおの昔に「死んだも同然」の流行歌手だ。死んだはずの彼女は、皮肉な形で二度「生き返った」。最初は、娘の宇多田ヒカルがデビューを果たしあっという間にトップシンガーになってしまった時だ。戦後最大の思想家である吉本隆明が流行作家になってしまった娘にちなんで「ばななパパ」と呼ばれてしまった哀しい現実と相通じているが、娘が並外れた歌唱力で一世を風靡したとき、「彼女の母親は藤圭子という演歌歌手で、さらに祖母は浪花節士」だったみたいに娘の経歴紹介の中で一瞬だけ生き返った。けれども、日本人形のような美貌に似つかわぬ低いドスのきいた声で「新宿の女」や「圭子の夢は夜ひらく」を謳い、昭和世代に忘れられない姿を刻みつけた藤圭子の実相が真摯に語られることは無かった。無責任なゴシップ報道はあったかも知れないが、本人の口から心情が語られたことも、まともな書き手がきちんと後づけた伝記も存在しなかった。演歌ではなく「怨」歌だと揶揄された彼女の生き様を、真に知るものはいなかった。「怨」の仮面に隠された素顔を知らぬまま、私たちは彼女を死んだも同然の存在として忘れ去っていた。私は沢木さんの作品を30年以上にわたり読み続けている。だが、結局のところ80年に『テロルの決算』の最終ページのエピソードを読み終えた瞬間の全身に鳥肌がたったあの感動を越える作品はなかった。『テロルの決算』の翌々年にかかれた『一瞬の夏』は、前作で沢木さんが確立した「私ルポルタージュ」というべき手法の期待されるべき第二作だった。それまでの客観を装い、無にしようとしても出来ようはずのないおのれを無にして対象を書くというルポの常道を突き破り、自らが積極的に対象に関わっていきその過程を書くという手法は斬新であった。しかし、『一瞬の夏』で、中心人物のボクサーがダウンして敗れた「一瞬」に、書き手の沢木さん自身がリングに飛び乗っているかのように「私」が対象に入り込みすぎている姿に私は落胆した。おそらくは、書き手自身も「私ルポルタージュ」の手法の限界を強く意識したのであろう、本書『流星ひとつ』の後記のなかで「当時の私は、日夜、ノンフィクションの『方法』について考えつづけていた」と吐露しているし、その後一作ごとに「方法」の試行錯誤を続けたとも書いている。30年の間に幾つかの試行作、あるいは錯誤作を読んだ。『檀』は、小説の体裁をとってはいるものの檀一雄の生涯を彼の未亡人へのインタビューを元に構成したもので、この無頼派作家の生き様がこの一冊をきっかけに私の中のどこかにかっちりと位置づけられた気がする。しかし、もしこれが檀という著名人の人生でなかったら、物語として成立しえただろうか。また、これってルポなの小説なの、こういう方法は「あり」なの。読み手の私同様、書き手の沢木さんも迷っていたのだろう。『無名』は、市井の文字通り無名の人だった父親の人生を息子の沢木さんが後づけた秀作だ。だが、この一冊が作品として成り立っているのは親父は無名であっても書き手が有名な作家であるからに他ならない。『凍』は、客観性を装いおのれを殺して書くオーソドックスなルポの手法で書かれていた。それなりに感銘を受けた。だが、沢木耕太郎がこれを書く意義があるのか。当然彼自身がそう思っていたのではなかろうか。結局、出世作だった35年前の『テロルの決算』を越える作品は、「ない」と断言してしまいたい乱暴な気持ちになってしまう。後記によると、この『流星ひとつ』は『テロルの決算』と『一瞬の夏』との間に書かれている。本来のタイトルは単に『インタビュー』とすべき、問いの台詞と応えの台詞だけで構成するという極めて斬新な手法である。単なる問いと応えの羅列の中で、「怨」という仮面を被ったイメージでだけ捉えられ、スキャンダルにまみれ、数限りない誤解にだけ包まれて世の中から姿を消した一人の女性の実像がありありと、手に取るように伝わる。だからこの一冊が世に出た今藤圭子は見事に生き返ったといえる。そしてまた、「精神を病んで自殺した昔の有名人」というひとくくりの説明だけで再び葬られようとしている一人の人間の真実を、今こそあえて世に問うた書き手の英断に、私は35年ぶりの鳥肌をたてた。「私」をも対象をも丸裸にし世にさらしてしまうリスクは、私小説同様の限界である。30年以上本作が封印されていた理由もそこにある。だがこれは間違いなく、この書き手の最高傑作にして、もう二度と書かれることのない「私ルポルタージュ」の金字塔である。 流星ひとつ 関連情報

藤圭子 田原総一朗の遺言 ~藤圭子/ベ平連 小田実~ [DVD]

若い頃のステージ外での圭子タンが見れるだけでも貴重なDVDです。喰い入る様に魅入ってしまいました。当時の東京の風景が見られるのも嬉しい。出来れば彼女へのインタビューがもっと長ければ嬉しかったです。 田原総一朗の遺言 ~藤圭子/ベ平連 小田実~ [DVD] 関連情報




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