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藤原緋沙子 番神の梅 (文芸書)

この物語の舞台となる時代は、天保10年(1839)から弘化4年(1847)にかけてである。なぜなら、第1章に主人公夫妻が天保10年正月に柏崎へ赴任したとの記述があり、また第15章に「3年前に水野忠邦失脚」「(水野が老中首座に)再任されるがまた失脚」との記述があり、その翌年の梅の季節に物語の結末を迎えるからである。当時、越後国刈羽郡柏崎の地は、桑名藩(久松松平家)の飛地領であった。飛地領とはいえ、桑名藩十一万石のうち石高六万石を占めるほどであり、この地の藩財政に占める重要性が窺える。この飛地領を統治するために柏崎陣屋が置かれ、陣屋詰めの役人は本国桑名から家族帯同でこの地に赴任した。赴任者の殆どが「片道切符」の遠距離赴任であり、本人はおろか家族も、桑名への帰還が叶わずに、終生この地で過ごしたという。この物語の主人公:紀久(きく)は、柏崎陣屋に赴任した下級武士、渡部鉄之助の妻である。紀久のささやかな願いは、夫が任期を終え、家族そろって桑名へ帰任することであった。紀久は桑名から持参した梅の木の苗を柏崎に移植した。そして「いつかこの梅に花が咲いたら、帰国の願いがかなうのだ」と一途に願っている。このはかない希望を心の支えにして、清貧かつ過酷な遠国暮らしを耐え忍んでいる。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」という言葉がそのまま当てはまる。夫の鉄之助は八石二人扶持という薄給ながら、勘定人として精勤している。公務と併行して、陣屋の子弟に学問を教えたりしている。家族の食糧事情を支えるために畑を借りて蔬菜を作っている。模範的ともいえる就業態度が評価され、下級武士としては破格の公事方退切(くじがたのっきり)という、司法と収税を管掌する役目に任ぜられる。仕事人間という訳ではなく、妻と子への気遣いは優しい。一方の紀久は、薄給の家計を預かりつつ、子育て、子の看病、出産と次々に見舞う出来事に疲弊し、身なりに構う余裕もなくなり、ついには病の床につくほどであった。遠地赴任であるため、柏崎には頼れる縁戚が少ないことも苦労の原因のひとつである。この物語は、紀久の視線で描かれた、柏崎での生活の記である。陣屋での出来事や、遠距離赴任者の家族同士の交流もアクセントとして添えられているが、大半の記述は「日常」である。哀しく、かつ圧倒的な江戸時代人の「日常」の有りようが描かれている。物語の結末は、現代人から見れば「救いのない」ものと映る。しかし、当時の人にとって、いや昭和30年代ぐらいまでの日本人にとっては、人生とは、子どもが大人になり、家庭を築き、働いて自分と家族を養い、子をなして育て、運よく大病をしなければ老境を迎えることが出来るという、およそ享楽とは無縁のものであった。紀久は夫と家族を築き、子を3人遺すことが出来たのだから、人生の意義の半ばは達せられたのではないだろうか。その時代の人物としては生を全うしたといえないだろうか、というのが私の率直な感想である。それにしても切ない小説である。読んでいてつらく思う箇所もある。それでも巻末まで飽きが来ない理由は、先ず第一に著者の力量であり、そして物語を通底したリアリズムにあると思われる。巻末にある、「柏崎日記」を筆頭とする参考文献群の列挙を眺めるうち、この物語は小説の形を採っているけれども、「本当にあった」江戸期下級武士家族の生活記が下地となっているのだと知った。実際に存在した家族をモデルにした物語であることを知り、切ない読後感がいっそう深まるように感じられた。なお、「番神」とは「ばんじん」と読み、現在の新潟県柏崎市郊外に実在する地名である。13世紀、佐渡流罪から赦免された日蓮が海難に遭った末に偶然漂着した場所で、彼はこの地に三十番神を勧請した。これが番神の地名の由来である。本書で紀久は、桑名から持ってきた梅の木の苗をこの番神の地に植栽した。この梅が紀久のいう「番神の梅」である。 番神の梅 (文芸書) 関連情報




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