イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)
イエズス会というのは本書にもある通り、カソリックの中では比較的新しい(か?)修道会だけれど、にもかかわらず、ヨーロッパの新大陸貿易の波に上手く乗って、世界的に大きく勢力範囲を広げることになった。
で、本書はその背景にあるイエズス会の経済的、軍事的戦略と全く未知の異教文化に入って行く際の方法論などについての研究書なのだ。ま、言ってみりゃイエズス会のマーケティング戦略といったところだろうか。
それは確かに極めて細かく構築された戦略であり、充分に状況を見て判断し、決して「押しつけ」にならないような形で庶民の文化に入り込んで行くための方策として練られたものだった。
ただそれが「軍事的」色彩を帯びて来たとき(それは最大のバックアップスポンサーであったポルトガルの国力が傾き始めるのと時を一にする)、必要以上の警戒感を秀吉に与えることとなり「宣教師の追放令」という最悪の帰結を見ることになってしまった。
それにしてもこういった宗教の集団ですらこれだけの読み込みを行って「外交」に臨むのに、現代の日本にあって対外理解というものがどの程度までなされているのか、甚だ疑わしいものがある。
修道院の断食 (修道院ライブラリー)
ドイツのカトリック修道院で年二回開催されている「一週間の断食セミナー」に参加した、42歳のドイツ人雑誌編集長の記録である。
著者によれば、西洋のカトリック世界では、修道院の内部を除いてすっかり世の中から忘れ去られていた「断食」が、近年は復活傾向にあるという。資本主義世界の目まぐるしい生活に疲れ果てた現代人が、スピリチュアルなものに癒しを求める志向がその背景にはあるのだろう。
本書を読んでいると、中世以前にはキリスト教の伝統のなかに「断食」が位置づけられていたことがわかる。初期キリスト教の砂漠の修道士たちの精神をうけついだ中世ヨーロッパのベネディクト会修道院では、謝肉祭で肉を断った復活祭まえの四旬節の40日間は「断食」をすることになっていたらしい。
興味深いのは、インドを含めた東洋的な精神世界があふれている現代の西欧世界に生きているのにかかわらず、著者が東洋の「断食」修行法にははいっさい言及せずに、キリスト教とくにカトリックのコンテクストのなかでのみ「断食」について語っている姿勢である。おかげで、東洋的な解釈に染まった「断食」ではない、本来のカトリックの修道生活における「断食」を読者が追体験することができる内容になっている。
物質的な何かを捨てることによって、別の精神的に価値あるものを得る。肉体の欲望をコントロールすることによって、精神的に純化された境地に近づく。これは現在の日本でも流行の、禅仏教やヨーガの教えにインスパイアされた「断捨離」に通じるものがある。不要なものを捨て去り、食を断ち、目から入る雑情報を断ち、耳から入る雑音を断てば、自然と五感がフルに働き、感覚が鋭敏になってくる。より精神的な境地に近づくことになる。
著者のように「7日間」ではないが、じっさいに、日本の仏教寺院の断食道場で「断食」を体験したことのあるわたしにとっては、共感するものとそうでないものがあるのを感じたのは、わたしが西洋人のカトリック教徒ではないからだろう。キリスト教の信仰をもたない者には、読んでもいまひとつピンとこない点もあることは、正直に書いておきたい。
とはいえ、たんなるダイエットを越えた、「断食」のもつスピリチュアルな側面に関心のある人、「断食」を活字をとおして追体験してみたい人は読んでみるといいと思う。そしてできれば、修道院なり仏教寺院で「断食」を体験してみることをすすめたい。