裸の十九才 [DVD]
なぜか、アランドロンの「太陽がいっぱい」やアランレネの「死刑台のエレベータ」を思い出しました。なぜでしょうか。。危なげな雰囲気でしょうか?冷たくシャープな映像でしょうか?若い2枚目が嘘を重ね犯罪に染まるからでしょうか?明るさと暗さを兼ね備えた主人公の性格、危なげなカッコよさを持つ原田大二郎の魅力でしょうか?スピード感と言うかメリハリのある編集もなんとも言えない魅力です。
コツコツという乾いた革靴で歩く音、フランス映画を思わせるフィルムノワール。脚本も演出も音楽もシャープで、しかも巷にあふれる表面的なスタイリッシュではない。日本の文化や風土に根付いた、最も土台のしっかりしたスタイリッシュな日本映画ではないでしょうか。ヌーベルバーグファンなら絶対見るべきですし、すべてが完成された密度の高い傑作です。最高!
MIDNIGHT + 1
東京に長年住む者だが、未だに新宿という街には縁が薄い。それでも昭和時代の任侠映画・Vシネ・小説群を通して触れる「新宿」は、ロ
マンティック、猥雑、そして哀愁といった清濁含む雑多な要素を感じさせ、特異だが惹きつけられずにいられぬ魅力を持つ街である。
最近は新宿をぶらりと歩いても、都市開発が進み裏通りでさえ割と整然と片付けられた現在の街並みからその胸躍る感覚は湧かない。
本コンピレーションは、まさに昭和の時代、若干虚構のフィルターも通し最も輝いていた頃の新宿像への8つのノスタルジーを音で綴った
作品。事前に試聴できず秀逸なジャケットを信じ購入したが、想像以上の出来だったので推薦。
まず参加陣が興味深い。歌手・セラピスト等実際に様々な形で新宿に根付く面子が名を連ねる上、元ピチカート・ファイヴの高浪敬太郎・
キリンジの堀込高樹等職人肌の音楽家、果ては小説家・俳優陣までが集結。異領域の者同士が手を組み各々の形で新宿へのオマージ
ュを見事に形にする。歌謡曲・パンク・シャンソン・詩の朗読まで曲毎に形を変える様は、正に雑多な街・新宿を描いた作品らしい。
幕開けの「深夜+1」、心をぐっと掴まれるムーディな演奏に導かれ「新宿鮫」の著者・大沢在昌による随筆調のフレーズを朗読するはな
んと柄本明。硬質な内容を敢えて飄々とした語り口で語る彼の朗読は味があり意外な位嵌っている。
キリンジ・堀込高樹が提供する「あきらめのボン・ヴォヤージュ」は堀込氏独自の捻りの効いた哀愁歌謡曲で盤中最も聴きやすい。ギャラ
ンティーク和恵による男女の性を超越した歌声で、行き場を求め新宿に流れ着いた者のドラマが語られる。
女性パフォーマンス集団「デリシャスウィートス」が歌うは昭和レヴュー調「イカナポンチ」。疾走するサウンドに乗せ「穴ひらけよ」「花びら
回転」等のぞき部屋の情景を想起させる猥雑な言葉を、素人然りの声で絶叫するおバカなノリが最高だ。
個人的な白眉が痛快ファンク・ロック「新宿LADY」。本業は歌手ではないというボーカル・Pi-koこと安元遊香の蓮っ葉な語り口と色っぽい
囁きを交えた歌、The Permanentsによる骨ある演奏が織り成す哀愁たっぷりのドラマはキマリ過ぎで痺れる。
ここに流れる35分には、酒を呑む男、ゲイバーのホステス、風俗の姉ちゃん、ツッパリの兄ちゃん…ありとあらゆる人のドラマが行き交う。
曲に刻まれたドラマが耳を激しく往来する演劇性の高いコンピレーションだ。
裁かれた命 死刑囚から届いた手紙
44年前の強盗事件で主婦を殺めた死刑囚。
その死刑囚に一審で死刑を求刑した検事。二審において私選で弁護を務めた弁護士。
二人と死刑囚が刑執行直前まで交わしていた書簡集を中心に
「死刑の重さ」を考える本である。
死刑囚から届いた手紙に検事は「本当に審理を尽くしたのか」という思いに、
弁護士は、調書で認めた死刑囚の殺意などについて
「本当に本音を引き出しているのか」という思いにとらわれていく。
主人公への感情移入という点から考えると、おそらく、読者は
「なぜ、死刑にする必要があったのか」という思いに強くとらわれるだろう。
「対象は1人の強盗殺人だから死刑は云々」の論点ではない部分ででである。
しかし私は本書を読後、強烈な違和感にとらわれざるを得なかった。
筆者はあとがきで「被害者遺族への取材は、44年前の悲劇を掘り起こしてぶつけ、
掘り起こすことになり、それは取材者に許される範囲を超えていると判断した」
としるしているが、
私が思った違和感とはこの被害者遺族への取材がないことなのである。
読者になにがしの判断を求めるなら、これがなければ完全な片手落ちである。
被害者遺族への取材なしでこの本を出版してはならないのではないか。
集パンはされてしまったので著者は、本書を前編として、後編に被害者の遺族取材を行う
重い責を持つことになる。
まなざしの地獄
見田宗介が書き残したモノグラフの再版。犯人が眼差しの地獄から逃れようとした過去から、眼差しの不在に耐えられない現在へ。この社会変化をどのように理論化するかが問われている。見田、大澤ともに秋葉原の無差別殺人を、現代の非実体的な抽象的システムへの反乱であると考えている。これ以上、匿名の「誰でもよかった」犠牲者を生み出さないためにも、いまここでの生き難さの原因を、強靭な思考力と分析力で提示することが必要だろう。あまりに強すぎる日本人の自己責任感へのしがみつきが、このシステムに対する批判的分析を妨げ延命させているのではないか。この再版を契機に、半端な構造改革を超え、抜本的な変革への期待が急激に高まることを期待したい。